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PSYCHOBUILDING®

展示コンセプト:Sharon is Karen

2025.09.15

*本テキストは、グレゴリー・マース & ナヨンキムの作品展示(会場③)の展示コンセプトです


Sharon is Karen(シャロンはカレン)ーーもちろん、ありふれたアメリカの女性名二つであり、響きがよく似ている。根底にある意味は「sharing is caring(分かち合うことは思いやり)」であり、発音がほぼ同じであるため同音異義語のダジャレになっている。これはユーモラスな性格を持ち、私たちがよく使う言葉遊びの一例である。では、なぜそんなことをするのか? なぜわざわざ? 詐欺師でありサディストであり天才でもあるジャック・ラカンの声で言うならば──「私は私が存在しないところで考える。ゆえに私は考えないところで存在する。私は私の思考の遊び道具であるとき、私は存在しない。私は考えようとしないところで、私が何であるかを考える」。つまり、要するに分裂したコギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)である。これで私たちは少し賢くなった。だが、ちなみにこれは真実ではない。もし私が自分の貧困、愚かさ、無知、無感覚、破壊性、借金、ギャンブル依存、鬱病、パニック発作、ウイルス保有量、水虫、結膜炎、そしてサディスティックな傾向を誰かと「分かち合う」としたら、それは間違いなく「思いやり」の正反対である。

もちろん、アメリカや(たぶん)イギリスのテレビ番組や様々なブログなども存在するらしい。調べてみると──イギリスでは「シャロン」という名前は「トレイシー」と並んで、若い労働者階級の女性をステレオタイプ化する階級差別的なスラングとして使われていた。この連想は現在ではほとんど消えている。

現代的な対比:「カレン」と対照的に、近年のミームにおいて「シャロン」は親切で、感謝を忘れず、忍耐強い人物として描かれている。つまり、横柄な「カレン」の正反対のイメージである。
現代的な蔑称:「カレン」は、横柄で要求が多く、人種差別的であると見なされる女性を指す広く知られた侮蔑的な俗語である。
起源:このミームは2020年前後に人気を博し、特権的で横柄な態度を批判する際によく使われるようになった。たとえば「マネージャーを呼んで」と要求するような振る舞いが典型である。
また別の筋書きとして「シャロンという女性は、実際にはカレンという女性である」という単純な事実陳述のようなジョークも存在する。あるスキットでは、男性がパートナーの名前を忘れてしまい、彼女が「私はシャロンよ」と主張するにもかかわらず、彼は繰り返し「カレン」と呼んでしまう。ユーモアは、彼の不器用な記憶と彼女の反応の間に生まれる。

だが私たちはユーモアを真剣に受け取る必要がある。そこから学べることは実に多いのだから。

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これらのアーティストはどこから来たのか:
他の作家のスタイルを模倣し、別の作家名を用いることを、技術的な用語で「フレノニム(phrenonymy)」と呼ぶことにしよう。これはドイツ語に由来し、英語には訳語がないと思われるので、新造語として受け取ってほしい。それは、別名義(pseudonymy)の一形態であり、単なる偽名ではなく、心の状態や性格的特性を指し示すものでもある。
フェルナンド・ペソアの作品においては、数十ものフレノニムが用いられており、それはまた、筆者自身が非外傷性の解離性同一性障害と診断されたことにも関係している。この稀な症状は娯楽的でもあり、空想遊戯やロールプレイが度を超えた結果として現れる。では、なぜ人生の後半になって発現するのか? それは「自分が自分を見ている姿」を直接見ることはできないからだ。

そこから現れたのが「Alex Search」であり、ペソアが小学校時代に最初に生み出したフレノニムでもある。我々のお気に入りの詩人であることは、偶然ではない。もし興味があれば、1928年の詩「煙草屋(Tabacaria)」を参照してほしい──詩はこれ以上良くはならない、と断言できる。「食え、小汚い少女よ、食え!」

その他のアーティストたちは純粋に幻想の産物であるが、それぞれ独自の経歴、国籍、精神性、スタイルを持っている。たとえば「リモノフ」という名は、ロシアのパンク詩人であり、後に反動的な政治家へと変貌した人物に由来する。「真のロシア」とか、その類いのものだ。また「ディートマール・ハーゲン」は、グレゴリーが「ハーゲン」という退屈な町で育ったことから生まれた。まるで悪い冗談のような町だが、彼は愛している。そして「ハーゲン」は固有名詞でもあり、ニーベルンゲン伝説でジークフリートを殺した巨人の名でもある。

もちろん、実際に「ハーゲン・ハーゲン」という名の人物を知っていた。彼はハーゲンという町に住んでいた──ひどい親だ。
とにかく、分かち合い、楽しんでほしい。
「ショーは続くのだ、ドーラ!」

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>>9/19-11/24 展示情報はこちら 成功とは、個体、人格、あるいはモノに寄生するように共生的な関係を築くものだ。経済的な視点から見るなら、それは労働力を搾取する装置であり、生産性や才能、美しさ、力、知性、技術といった個人の特性を取り込みながら機能する、偽装された搾取の仕組みである。成功は「意味を生む物語」のふりをして、むしろ個人の行動を制限する。 動機というものは、他者の評価や物質的な報酬に依存しない。自身の関心や達成感から内側に湧き起こるものである。そして野心とは、「もし自分が〜だったら」「もし成し遂げられたなら」といった現実に根拠のない仮定に基づいており、その多くは幻想にすぎない。 人の選択は、そのときどきの状況に影響されながら「意味」の感覚を形づくっていく。しかし選択が必ずしも意味から導かれるわけではなく、逆もまた然り。そこには自己回帰的で終わりのないループが存在する。 香を焚くこと、ブラックコーヒーを飲むこと、髪を切ること。こうした日常的な行為でさえ、意味のあるものと感じられることがある。それがたとえ、喫煙や潜水艦による密輸、爆薬の発明、あるいは死刑囚としての拘束といった他者への加害性を含む行為であっても、「意味」はそこに入り込む。 意味という概念は、多層的で複雑である。それは時間という概念と切り離せず、「一貫性」や「洞察」といった性質を帯びつつ、説明的でもあり、予測的でもある。では、自分は作品に対して、あるいは世界に対して、どのような意味を持っているのだろうか。 死の向こう側にも意味はあるのか。その余波のなかに、生の目的を見つけることができるのだろうか。 人間は、自らを見つめ直す力を持っている。自分の存在を意識し、思考や感情、そして精神の「内臓」とも呼べる深部に、洞察を向けることができる。 このプロジェクトでは、千葉市内の複数の会場で作品を展開する予定である。 【市民参加のかたち】ワークショップ参加/展示鑑賞 >>9/19-11/24 展示情報はこちら
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